新妻の胃癌細胞
JUGEMテーマ:がん全般

私が大学の外科学教室に入局して二年目のことです。結婚して間もない同僚の奥さんが胃癌で入院してきました。若いだけに癌の進行は速く、その時すでに手術のできるような状態ではありませんでした。それにもかかわらず、わずかな望みを頼りに手術は行われましたが、やはり病巣を取り除くことはできませんでした。しばらくしてその美しい新妻は亡くなってしまいました。それはそれは悲しい出来事でした。


入局二年目では執刀医にはなれませんが、私は助手として新妻を治療する手術チームに加わり、手術創を開くを引きながら手術の一部始終を見ていました。癌病巣はすでに胃を越えて肝臓に達し、その上、腹膜まで癌に侵されて腹水も溜っていたのです。私はその腹水を全部すくい上げて、滅菌した大きなビンに入れて取っておきました。その中には、美しい新妻を襲った憎き癌細胞がたくさん入っていたのです。


私は研究室でその癌細胞を培養して驚きました。細胞は初めから猛烈な勢いで増殖します。たちまち培養管は癌細胞でいっぱいになってしまいました。特殊な薬を使ってその細胞を一個一個バラバラにして、何本かの培養管に分注して再び培養しますと、そのいずれの培養管も数日の内に癌細胞でいっぱいになってしまいます。何回植え継いでも増殖は衰えることを知りません。このようにして新妻の胃癌細胞はどんどん増殖していったのです。私はこの癌細胞を使って数々の貴重な実験を行なうことが出来ました。


半年もたった頃です、最愛の妻を亡くした同僚もようやく落ち着きを取り戻したのではないかと思われるある日のこと、私はその同僚にたいへん罪深いことを言ってしまいました。不遜にも「なつかしい人に会わせてやるよ」と言ってしまったのです。誰が待っているかわからないままに、同僚は心踊らせて私と一緒に研究室までやって来ました。


そのときまで、奥さんの癌細胞の培養の話は一切していませんでしたので、そのときは彼は何のことか理解できなかったようです。研究室に来て、細胞を生きたまま直接観察できる位相差顕微鏡をのぞいて、「なつかしい人ってこれかい」と言います。そこで初めて何であるかを悟ったようです。「これが僕の・・・・」と言ったきり黙ってしまいました。


体温と同じ三七度に保たれた小さな培養管の中では、そのときも新妻の胃癌細胞は増殖しながら生き続けていたのです。


彼は黙ったままじっと顕微鏡をのぞいていました。それはありし日のことを思い出しているような目でもありました。しまいにはうっすらと涙さえ浮かべていたようでした。しばらくの間沈黙が続き、室内にはただ培養器に空気を送るポンプの音だけがリズミカルに響いているだけでした。


命っていったい何なのだ。美しい新妻は死んでも彼女の体の一部は今も目の前に生き続けている。しかもどんどん増殖し続けているではないか。再び、研究者の目にもどった我々二人は、新妻の癌細胞を前に、しばし生命の何んたるかを語り合うのでした。

| がん細胞は寿命を超越した存在 | 05:17 | comments(0) | - | pookmark |
試験管の中で生き続ける分身
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新妻の死後も彼女の分身の胃癌細胞は生き続けていました。ところで、細胞を培養するためにはいろいろな工夫が必要です。まず初めに、あらゆる栄養素を含んだ培養液を用意します。細胞はそのような全ての栄養素を含んだ溶液の中でしか生きることができません。ところがどのように完璧な培養液を用意しても、人工の栄養素だけでは細胞を培養することは出来ません。新鮮な動物の血清も加えなければなりません。天然の栄養素が入っていなければ細胞は増殖することは出来ないのです。そこには、私たちがまだ検出することのできない、細胞の発育に必要ないろいろな未知なる物質が含まれているものと思われます。


これらの培養管を収容する大きな培養器には、培養液のPHを調節するために五%の炭酸ガスを含んだ空気をポンプで送り込みます。そして全体を体温と同じ三七度に保ち、体の中と条件を同じようにして細胞を培養します。


大切なことは、培養管の中に決して細菌やカビを入れないことです。不注意でごくわずかな細菌やカビが入っても、次の日、培養管の中は細菌やカビに占拠されて細胞はたちまち死滅していまいます。がん細胞といえども細菌やカビにはかなわないようです。


ところで、人に寿命があるように正常細胞にも寿命があります。正常細胞はがん細胞とは異なり、条件が整った培養液の中であっても永久に生き続けることは出来ません。正常細胞は一定期間増殖すると増殖は自然に止まってしまいます。


私は以前に、大学の皮膚科の教授に頼まれて、人の人工皮膚を作るために、胎児の繊維芽細胞を培養したことがあります。人工流産のときので取り出した胎児の皮膚の断片をやっとの思いで手に入れ、それを細切して培養しますと、その中から一部の細胞が伸びてきます。その細胞を取り出し、薬品を使ってバラバラにして別の培養管に移して更に培養を続けますと、やがて培養管の中はその胎児皮膚細胞でいっぱいになります。このようにして胎児の皮膚の細胞を増殖させることができます。それが胎児繊維芽細胞です。


その胎児線維芽細胞の増殖力は極めて旺盛ですが、それでも、その細胞がガラス製の培養管の底面いっぱいに広がると、その時点で細胞の増殖は止まってしまいます。細胞同士が重なり合って、それ以上には増殖してくれません。一層だけで増殖は止まってしまうのです。


人工皮膚を作るためには一層だけでは薄過ぎます。皮膚と同じように幾重にも重なり合ってもらわなくてはなりません。ところがどうしてもそれが出来ないのです。細胞の世界にも縄張りがあって、正常細胞の一定領域内の細胞数は決まっているようです。


しかも培養を続けて一年もたつと、いかに増殖力の旺盛な胎児の細胞であってもだんだん増殖速度は遅くなります。そして、ついに細胞分裂は止まり、細胞の形も細い網の目のようになり、ガラス面にただしがみついて生きているだけの状態になります。どうも細胞の世界にも寿命はあるようです。


実は生き物に寿命があるように、試験管内の正常培養細胞にも寿命があります。しかも面白いことに、寿命の長い動物の細胞ほど試験管のなかでも長生きします。二年しか生きることの出来ないハツカネズミの細胞は、試験管の中では九回しか分裂できません。ところが四十年は生きるといわれるウマの細胞は、三〇回も分裂することが出来ます。そして百二十歳が寿命の限界といわれるヒトの細胞は、驚くなかれ、試験管の中では五十ないし六〇回は分裂するといいます。生物の寿命は、その生物の細胞の分裂回数に比例していたのです。このように、正常細胞は細胞単位であっても寿命があったのです。


ところが、胎児細胞を培養している内にとんでもないことが起こりました。胎児の正常細胞を長いあいだ培養していると、最後には寿命が尽きて、殆どの細胞は培養管にただへばりついてやっと生きているだけというのに、その中の一本の培養管で、異常に増殖をする細胞が現われたのです。ほかの培養管の細胞は、みんな元気がなくなってガラス面にただへばりついているだけだというのに、その培養管だけは細胞がぐんぐん増殖しています。位相差顕微鏡でよく見ると、細胞分裂も激しく、細胞同士が重なり合っているではありませんか。細胞は異常なほど猛烈な勢いで増殖していたのです。


その細胞の性質を調べるために、特殊な方法を使って培養細胞の核の染色体数を調べてみました。すると、染色体の数は正常値をはるかに越えて異常に増加していたのです。これはもうすでに胎児の正常細胞ではありません。胎児細胞に突然変異が起こり、異常に増殖するがん細胞に変身していたのです。


培養管の中では胎児細胞変じてがんとなり、そのがん細胞が活発に増殖していたのです。


これががん細胞であることを証明するためには、その細胞を人に戻して異常に増殖するかどうかを確認すればよいのですが、そんなことは許されるはずがありません。そのようなときには、その培養細胞を免疫が不完全な特殊なネズミであるヌードマウスに移植して、異常な増殖をするかどうかを調べます。異常な増殖を確認してがんと判定します。


このようにして、この細胞ががんであることが判りましたが、いかに細胞同士が重なり合って厚くなったとしても、がん細胞では人工皮膚として使うわけにはいきません。こうして胎児細胞を用いた人工皮膚製作は失敗してしまいました。


ところが不思議なことに、正常細胞ががん細胞に変身すると、その細胞の寿命は延びてしまうことがわかりました。がんになっていない正常細胞は老化して、ただ単にガラス面にじっとへばりついているのを横目で見て、がん細胞は猛烈な勢いで増殖を続けます。胎児細胞の何かが目覚めてしまったのです。無限に増殖する遺伝子が活動を開始したのです。


人は誰も死から逃れることはできません。不老長寿の妙薬は錬金術と同じように、永遠の夢でしかありませんでした。ところが、細胞は寿命を免れることができます。それはがんになればいいのです。


同僚の新妻の胃の細胞は癌となって、試験管の世界で生き続けていたのです。正常であった胃の細胞はその遺伝子を変化させて癌となり、永遠の寿命を獲得したのです。寿命を超越した存在、それこそががん細胞の最大の特徴であったのです。

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免疫治療専門医 中嶋靖児
中嶋靖児 著

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